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スタジオOJMMが企画編集する連載コラム、7年目となる2009年は、「建築ノオト2009」(全12回)。

第7回、7月号の内容は

カフェオーナー、浅海恵美子/白滝素子の「本に読む建物」
大阪ドーナッツクラブ代表、野村雅夫の「100年前から映画が恋人 ~新京極シネラリーベ~」
建築家、南野優子の「空間を表現する言葉 」
豊田高専建築学科助教、加藤悠介の「研究室にペットがほしい」

4人の執筆者が、それぞれ違った視座から建築周辺の話題を綴るコラム、お楽しみください!

 

浅海恵美子/白滝素子

カフェオーナー、美術館のもぎり/お抱え料理人
大阪空堀
Books & Cafe LOW

本に読む建物

 物語の中で表現される建物の描写に、私たちは心の中にはっきりと、建物やその空間を作り上げることができます。詩人の平出隆さんの書かれた「猫の客」という小説には、昭和の初め頃に建てられた、懐かしい日本家屋が細部にわたって活き活きと描かれ、猫の「チビ」が縦横無尽に行きかう様子が語られていきます。読む側は、その心の中に作り上げた建物に、「チビ」がしっかり住み着いていくのを感じます。家人と交える親愛の情に依って、チビにとってその家は、ただ外部から身を守るためだけのものではなく、自分を包む絶対的な宇宙であるかのように存在しています。
 レイモンド・カーヴァーの短編「大聖堂」(村上春樹訳)は、盲人の客・ロバートに、主人公が「大聖堂がどんなものか知っているか?」と問いかけるところから、彼自身が物事の本質に気付いていくというお話です。彼は言葉だけでその形を伝えようとしますが、ロバートには理解できません。本当の闇というのを知らない我々が、既存のイメージを視覚化することで、その描写から頭の中に映像を作り上げるのと、ロバートのそれとはまた異質の作業かもしれません。それでもロバートは、主人公の手に誘導され、「大聖堂」を紙に描いたあと、人々の姿を描き入れようとします。生き物の存在が、無機質の建物に息を吹きかけることを、彼は知っているのです。同時に、信仰ともいえる愛の感情がそこに存在する者になければ、本当の意味で生きた建物にはならないということも。主人公が、家の中に居ながら、何かに包まれていないという感じに襲われて愕然とするのは、自身の愛(即ち、信じる力)の欠乏に気付いたからでしょう。 漱石文学に描かれる建築空間を、登場人物と絡めて分析していくという試みで書かれたのが、建築家の若山滋さんの「漱石まちをゆく」です。
 舞台の設定としてだけでなく、その人物や時代の象徴として描かれる建物。そんな視点から読む、本の中の建築探訪も興味深いです。
(白滝素子)

文字通り繁華なこの通りで、恋人はあなたを待っている。

野村雅夫(MASAO)

大阪ドーナッツクラブ代表、
ラジオDJ
京都、ローマ
大阪ドーナッツクラブ

100年前から映画が恋人 ~新京極シネラリーベ~

 じめじめが身体にまとわりつく。街全体が汗ばんでいるよう。今月の京都は祇園祭。中心部の活気は、気温や湿度と連動して鰻登り。そんな暑くて熱い古都の目抜き通り、新京極通り。モダンなファサードでクールに異彩を放っている映画館が、新京極シネラリーベだ。実はこの場所、日本最古の映画会社のひとつ、M・パテー商会がパテー館として1911年にオープンして以来、名称や経営母体こそ数々の変遷があるものの、現在にいたるまでずっと映画館だったというから驚きだ。ここでいったいいくつのドラマが紡がれてきたのだろう。イタリア語では歴史も物語も同じストーリアという単語で表現する。その所以を体現する、とても由緒ある場所だ。
 この名称に改め、改装したのは2006年のこと。あまり京都に足を運ばない人には、ひとつ前の名前、弥生座のほうが馴染みがあるかもしれない。一昔前まで日本各地に残っていた宣伝用の絵看板で有名だった。ただし、絵があまり映画に似ていないという、若干不名誉な理由で。でも、それは言葉を換えれば「味」となる。子供の頃、僕も京都へ来るたび、その個性的な味わいを楽しんだ覚えがある。
 京都の映画祭といえば、4月に取り上げた祇園会館をメイン会場とする大掛かりな京都映画祭が有名だが、このシネラリーベでは、商店街が主催する新京極映画祭が2002年から毎年秋に開催されている。毎年異なるテーマを掲げ、娯楽色を維持しながらも、古今東西の「ただものではない」フィルムを企画上映するこのフェスタ。イベントとしては小ぶりだが、手作り感があるだけ、この繁華街を支える人たちの映画文化への殊勝な心意気がそこここに感じられて、なかなかに愛おしい。
 シネラリーベとは映画の恋人という意味。文字通り繁華なこの通りにあって、装いを新たにした恋人は、薄化粧なぶんだけより僕たちを惹きつける。この夏も暑くなりそうだ。一時の涼を求めて、恋人との逢瀬を重ねてみてはいかがだろうか。

部分から全体を想像してみたり

南野優子

建築家(設計事務所勤務)
大阪

空間を表現する言葉

 小説を読んでいて、なまめかしい空間の表現に想像力をかきたてられることがある。それぞれの言葉が持っている意味に自分が持ち合わせている経験が合わさって、より具体的なイメージが浮かび上がってくる。小説の中には状況としての空間の説明という場合もあれば、登場人物の気持ちが空間に投影されて表現されている場合もある。読者として登場人物の気持ちに共感した時には、言葉で表現された空間が読み手の中で改めて肉体化していくような感覚であろうか。
 「言葉」は読み手の受け止め方によって、ある程度自由に想像を膨らますことができるものである。空間を表現する代表的なツールである「絵」と比較してみよう。例えばCG上では空間の形状、壁や床の材質や色味、光と影による陰影などあらゆる情報が表現される。そのために、あまり想像をしなくても一目でその空間を理解することができる。好き嫌いはあったとしても、見る人の受け止め方によって大きなブレがあることは少ない。だからこそ、設計者とクライアントが共通の認識をもっていることを確認するための有効なツールであると言える。一方「言葉」は、自由に想像できる分、時として客観性・具体性に欠けることがある。言葉一つ一つの定義を確認していかないと、双方の想像だけでイメージを膨らませることになり、結果としてお互いに異なった認識を持つことになってしまう。
 イメージを膨らませたい時は積極的に「言葉」を用い、そのイメージの認識の共有を確認したい時は積極的に「絵」を用いるなど、目的や状況に応じて二つのツールを相互補完的に使い分けることは有用であると言えそうだ。それぞれのツールが持っている利点を使いこなすことができたら、空間の表現にも深みがでてきそうだ。

例えば犬との散歩は、街の環境的変化の多くを教えてくれる。

加藤悠介

豊田高専建築学科助教
愛知県豊田市
加藤(悠)研究室
豊田工業高等専門学校 建築学科

研究室にペットがほしい

 いきなりペットがほしいなんて言うと、子どもの駄々こねのようだけれど、結構本気なんです。チャンスがあればいつでもするぞというぐらい。
 ごく身近な環境において建築的な実験をしたいという欲望を、私は持っているようだ。ゼミ室の家具レイアウトが毎年のように変更されるのも、実はそれによる学生の行動変化を密かに観察して楽しむためなのだ。「研究室にペットを」に関しても、個人的に動物好きということもあるが、動物と一緒に過ごすことで研究室という「場」の雰囲気がどう変わるのかに興味があるのだ。
 そもそもペットを飼うという発想は1冊の本に出会わなければ出てこなかった。「Life Worth Living」というタイトルの本である。私が高齢者施設の研究に励んでいた大学院生の頃のゼミで輪読した。老人ホームに勤務する医師が様々な環境実践とその効果について述べており、そのいくつかの章で、犬や猫、鳥などのペットを飼うことで高齢者の生活がどれほど豊かになるのかが論述されていた。高齢者とペットが相互関係をもつことで、たとえ認知症を患っていても、世話をするという役割によって生活がいきいきと形づくられるのだと。これを読んだ頃、安全や衛生の面から日本でペットを飼っている高齢者施設はほとんどなく、私の思考の枠組みを越えたこのビビッドな考え方は強い衝撃と共感を与えた。ここから、動物も私たちを囲み生活に寄り添う環境因子として、壁やテーブルと同じように扱えないだろうかと思うようになり、「研究室にペットを」と自分の身近な環境での実践を夢見るようになった。
 さて、「研究室にペットを」作戦は成功するだろうか。高専ではかなり壁が高そうなので、まずは野菜からはじめよう。今年の冬から育て、収穫物を周りの教員に配る。これにより実績と信頼はおのずと得られる。外堀は埋められた。その後、満を持してペットへと移ることにしよう。くれぐれも内密に。

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