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スタジオOJMMが企画編集する連載コラム、6年目となる2008年は、「建築ノオト」(全8回)。

最終回、12月号の内容は

大阪ドーナッツクラブ代表、野村雅夫の「銀幕の中の風景とその儚さ、そしてその儚さゆえの煌めき」
美術家・現在上海にて新入社員、安福真紀子の「街で」
絵描き、鈴木啓文の「やどり木の葉は枯れない」
インテリアコーディネーター、ユイコの「我が家のツリー、未来形。」

4人の執筆者が、それぞれ違った視座から建築周辺の話題を綴るコラム、お楽しみください!

チネチッタの巨大セット。これもやがては消失する。

野村雅夫

大阪ドーナッツクラブ代表、
ラジオDJ、大学非常勤講師
大阪、京都、ローマ
大阪ドーナッツクラブ
FM京都αステーション

銀幕の中の風景とその儚さ、そしてその儚さゆえの煌めき

幾度となく繰り返し観てしまう。誰にも1本くらいはそんな自分の名画があるだろう。そして人は、そんな愛するフィルムの撮影地に足を運びたいという抗しがたい欲望に駆られ、時にそれを実行に移す。その映画が自然光を使って実在する風景や建築物を物語の舞台とした、いわゆるロケーション撮影によるものであると聞けば、その欲望は一段と加速する。ただし、そこで彼/彼女を待ち受けているのは、往々にして失望である。僕も経験があるけれど、ロケ地と思しき現場に立ってみても、映画の映像や自分の脳内でブロウ・アップされたイメージとは程遠い景色が広がっていたりするものだ。
一方で、がっちりと組み上げたセットで撮影された映画ならどうだろう。たとえばフェッリーニは、ローマのチネチッタ・スタジオから一歩も出ることなく一本のフィルムを撮り終えてしまうことも多かった。あるいはヴィスコンティの『白夜』(1957年)に登場する水路のある街並みは、驚くことに隅から隅まで作り物である。こうした場合、我々が撮影地を訪問することは逆立ちしても叶わない。しかしそれは、現場に立ち会うという特権を享受していたスタッフにしてみても、あまり変わらない。セットというものが、クランク・アップと同時に解体されてしまう運命にあるからである。
この連載では、スクリーン内の風景や建築物を「俳優」に見立ててきた。「彼ら」は実在するものであろうと、セットであろうと、ひとたび映画に取り込まれてしまえば、映像の中にしか存在しないものとなる。いずれの場合にも、「俳優」を現実世界で目の当たりにしたいという我々観客の望みはついに果たされず、願いは儚いまま漂い続ける。しかし、それと同時に、その儚さこそが、映画の中の世界をより鮮やかに縁どり、煌めかせるのではないだろうか。映画は現実の被写体を持ちながらも、よく夢に喩えられる。その理由の一端は、映画のこうした性質にあるのかもしれない。

安福真紀子

美術家、現在上海にて新入社員
ドイツから上海へ
スペクテリー
アート&デザイン各種
ドッペル デー
ドレスデンから現代アート

街で

ふと目にした光景が、まぶたに焼き付いて忘れられなくなることはないだろうか。
それは、ある天気の良い週末、繁華街にて。最新のファッションできめた若者があふれるなか、20代前半のサングラスをかけた若者が、笙のような楽器を路上で演奏していた。演奏と呼ぶより、懸命に音を鳴らしていた、と表現した方がぴったりする。そばには、いかにも田舎からでてきたといった母親が黙って立って、買い物客に布施を求めていた。気持ちがぐっと沈んだ。

ここ上海で、若くて健康であれば、何かしら仕事はありそうだ。が、もし障害があったら?年老いていたら?赤ちゃんがいたら?
出勤する途中に、お寺がある。有名な観光地で、外国人客が大勢やってくる。その観光客に布施を求める(おそらく)事故で手足を無くした人々。道ばたで、突如、高齢者にお金を求められる。飲みにいく。店の前に年配の婦人たちが集まって、やはり小銭を求める。大通り、信号で車が停車する。その度に赤ちゃんを抱えた母親が、運転手に駆け寄り、とにかく頭をさげ続ける。

そして私。小銭あげたり、目をそらしたり、うっとおしいと思ったり。「政府が、なんとかするべきこと」と憤ったり。これも職業のひとつかと考えてみたり。現在、中国の華やかな経済発展の面ばかり、とかく報道されがちだが、ほんのわずかなお金で生活し、そこから抜け出す手段をまるでもたない膨大な数の中国人がいることも事実だ。

とある夜、地下鉄の中、盲目の子供を連れた母親が現れた。色彩の無い青い目で、男の子がにこにこと笑いかける。子供のかわいさに小銭をあげる。自分とあまり歳の違わない母親の誇らしげな、うれしそうな顔としっかりした声の「謝謝!」。この瞬間、自分の中にあった考え方がちょっと変わったのは事実だ。 その親子から、なにかエネルギーを受け取った気がしたのだ。もし自分が落ち込んでいたり、自信を無くしたときに、こういう心からの感謝を表されたら、結構、精神的に救われるんじゃないだろうか。それもほんの1元(15円)のお布施によって。彼らの持つ社会的な役割というものが、存在するのではないか、と。

このコラムは今回で最終回。ずっと心の中にあって、いつか書きたいと思っていたので、ちょっと建築からテーマをずらさせていただいた。今までコラムをお読み下さった皆様、スタジオOJMMのみなさん、お付き合いいただき、どうもありがとうございました。

R cafe(大阪市北区中崎西4丁目1-20)

鈴木啓文

絵描き
大阪
小春日和

顔写真撮影 しんやちひろ

やどり木の葉は枯れない

家や店の軒先にある鉢植えの緑は、道行くヒトも和ませる。
昨年店長がこのコラムを手がけていたR cafeでは、軒先ではなく路地向かいのトタン 塀沿いに鉢を並べている。トタンにはカラフルな絵が描かれていてRの文字もみえる。トタンは大工さんの塀であってRの敷地ではない、爆
この壁画の塗り換えはRのこどもの日のイベントとされている。店長がテーマを決め、店で展をした若い画家が下塗りや当日陣頭に立つが、主役は地元の小学生だ。小学校が廃校になっても町に小学生がいないわけじゃない。町内会で回覧板も回して呼びかけ、地元のイベントと化している。
いま描かれている絵のテーマは「やどり木」で、思い思いの鳥が集う。描かれた葉は枯れないまま、新緑の季節にまた塗り替えられるまで枝にある。
パブリックアートやら参加型現代美術やら名付けられる以前に、軒先の緑のように何気ない。しかも創設以前から見守っているお向かいの壁だ。店内、2階の窓からも見下ろせる。これに勝るしあわせな環境をワタシは知らない。
あ、路地向かいの壁に幻燈を投影するようなものか。とゆう最初触れた話に戻ったところで、この連載も任期満了、ありがとうございました。

蛇足ながら この連載で描いた絵も含め、年末にこのR cafeで展示いたします。慌ただしい折ですがもしよかったら

 

ユイコ

インテリアコーディネーター
(インテリア関連メーカーショールーム勤務)
大阪

我が家のツリー、未来形。

職場復帰から2ヶ月が経過した。慣れない育児との両立で、時短勤務なるシステムを活用し、仕事は夕方5時で切り上げる。職場は西梅田という大阪では人気のロケーション。最近できた話題のスポットへ向かう人の波に逆らって、一人、保育園を目指してひた走る。そんな毎日だけれど、今日は主人が子どもを見てくれているので、10分間の贅沢と称し、地下街を通らず敢えて地上を歩き、イルミネーションを楽しんで帰ることにした。寒がりで冬は苦手な私だけれど、夕方5時にしてこの景色。冬には冬の良さがある。
住宅街でも時々、電飾華やかなるお家があるものの、我が家はインテリアにて楽しみたい志向。子どもが生まれてすぐの昨年は、気持ちのゆとりもなくあっという間に年末を迎えてしまった感があるが、今年こそは大きなツリーでも飾ってみるかと主人に相談を持ちかける。その結果、子どもが葉を引きちぎって食べる、なぎ倒す、との心配から購入は見送ることとした。結婚祝いに頂いたパキラの鉢植えも、同じ理由でリビングから玄関ホールへと移動した。季節感のあるインテリアを楽しみたくて、新婚当時に購入したのは卓上のミニツリー。ファミリー向けの大きなツリーの購入は見送って、今年も小さな木製の卓上ツリーを電話代に飾る。ポインセチア、クリスマスリースなど、あらゆる飾りは子どもの手の届かない高さに設置する。それでも娘なりに室内の変化に気づいたらしく、飾りを指差しては「ん、ん」と示してくれる。飾り甲斐があったというものだ。
立派なツリーを飾る楽しみはあと数年だけおあずけとして、しばらくはこんなクリスマスもいいかもしれない。そういえば、ポインセチアの花言葉は「家庭の幸福」だったっけ。これからも毎年欠かさず飾り続けたい。そしていつの日か、娘と一緒に室内の装飾を楽しめる日が来ることを夢に見つつ、インテリアの仕事に励んでいこう。

今回は谷町6丁目にある「雑貨と喫茶とギャラリーと ひなた」にお邪魔しました。

参加者:
鈴木啓文
牧尾晴喜(スタジオOJMM)
森本光亮(スタジオOJMM)

R Cafe

ラクガキ ~不定期掲載、編集後記的な座談会~

(一同、喫茶席にてまったり。何となく座談会が始まる。)


牧尾: まずは鈴木さんの通称にもなっている「しらないひと」についてうかがいたいと思います。知らない人(通行人)をテーマに描き始めたきっかけは?

鈴木: やはり、一番プリミティブな方法だったからですね。現場での写生というのは、練習のテーマの延長として自然な流れでした。

森本: 特にどういった人をテーマにしていますか?

鈴木: 制作時間が夜になることが多いので、疲れたビジネスマンやOLが多いですね(笑)。逆に子どもは少ないです。選んでる訳ではないですけれど、結果的に。

牧尾: では、このコラムとの関連ですが、スケッチのモチーフとして、「人」と「建物」や「風景」では、どういった違いがあるんでしょうか。

鈴木: 意識の違いは微妙ですね。僕は大阪ではJRの環状線で乗客を描くことがよくあるんですが、あれなんか一種のゲームですよ。ランダムですから。

森本: タイミングが合わないことなんかも多いでしょうね。

鈴木: そうですね。環状線で2周しますよ(笑)。それに比べると建物や風景は、基本的には動きがないものです。今この話をするまで自覚なかったですけれど、電車の中の人のスケッチは途中で終わってますね。逆に、風景はある程度描き込んでいる。

森本: 何でも簡単にコピーできるデジタルの時代において、「描く」ことの意味は何でしょうか?

鈴木: まず根本的な話ですが、意味の有無にかかわらず、描くこと自体がすごく面白いです。普段は記号のように認識している細部も、むちゃくちゃ観察しますしね。

牧尾: 例えば、タイルだとか梁とか?

鈴木: そうですね。造った人の意思の表現だと思うんですが、その上澄みだけでもすくいたいんですよ。このコラムでは僕が普段テーマにしている「人」だけではなく「建物」にフォーカスしたスケッチという点が面白く、難しくもあります。

牧尾: コラム用画像のフレームも正方形ですしね。

鈴木: そう、あれがクセモノ(笑)。でも、LPジャケットみたいなレイアウトもあるし、いい刺激になってます。

牧尾: そう言っていただけると、こちらも嬉しいですね。ありがとうございます。ところで、今度、ギャラリーを開催されるんですよね。宣伝お願いします。

鈴木: それでは遠慮なく(笑)。「恋人のいる街」という「鈴木啓文(鉛筆画) x しんやちひろ(写真) 二人展」で、中崎町のR-cafeで12月17日~28日までです。

牧尾: 僕もうかがいます。楽しみですね。


(座談会、何となく終了。一同、引き続きお茶を楽しむ。)

2008年の建築ノオト、ご愛読いただきありがとうございました。2009年1月からは、「建築ノオト 2009」がスタートしますので、引き続きよろしくお願いします。

スタジオOJMM一同

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